『宮古民衆の人頭税廃止運動とクイチャー』
1. 「祈り」から「歌・舞」へ
現在の宮古方言では歌謡はすべて「あーぐ」又は「あやぐ」と総称されている。美しい言葉を意味する「綾語」に由来するという。「あーぐ」は神への祈りから始まったといわれている。人知の及ばぬ世界は神への祈りをとおして安らぎに変えていく。その祈りの言葉がいつか調子を整えて歌に昇華した、というものである。タービ、ピャーシ、ニィーリ、フサなど、神歌と総称される多くの古謡も伝えられている。さらに感きわまって手を振り、足をあげることで踊りへと発展した。歌も踊りも元来敬けんな祈りのなかから生まれたのだ。宮古を代表する踊りが「クイチャー・ブゥドゥイ」である。隆起珊瑚礁の島で表土浅く大木の育ちにくい宮古は、古くはから台風、干ばつに悩まされてきた。そりゆえの祈りである。「雨乞いのクイチャー」が伝えられていることでもうなづけよう。
「豊年ヌ雨ユ 十日越ヤ長サ 五日越六日越降リド見事/此ヌクイチャーヌ出デタリヤド 今年世ヤナホレ/来年ガ世ヤ優リナウラシ腹満タシ」(豊年の雨は十日越しは長すぎる、五日越し、六日越し降るのが見事だ。此のクイチャーが出来たので、今年はすばらしくなり、来年はもっとすばらしくなって満腹させてほしい。[友利明令“宮古民謡”稿本 1949])
クイチャーのクイは声、チャースは合わす、ブゥドゥイはおどりである。単にクイチャーといえば歌と踊りの両方を意味するので、歌はクイチャー・アーグ、踊りはクイチャー・ブゥドゥイといって区別する。とりわけ近世人頭税社会では、クイチャーは神々との共生であり、ひいては喜怒哀楽を共にする数少ない娯楽であったろう。
2. クイチャー
「あーぐ」についての記録は14世紀末までさかのぼれる。1767(乾隆32)年9月、白川氏正統14世恵政(当)によって那覇泊近くに建立された「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡」碑には、1390(洪武23)年、与那覇勢頭豊見親が、中山王察度に朝貢したとき随行した高真佐利屋が、毎夜遠見台にのぼって「遥望故郷或唱阿屋具或咏歌」(遥か故郷をしのんであやぐを唱え、歌を咏じた)ので、村人たちは今もその一帯を「高真佐利屋原」といっているのだという。
「クイチャー」については17世紀中葉の記録が最も古い。1707(康熙46)年6月整備の御嶽由来記は「大安母みやまいりの事」と題して、宮古での神職(女)の最高位である大安母は、国王に任命された後には、三年おきに国王に拝謁していたが、遭難事故が多いので、1655(順治12)年からは必要に応じて呼ばれた時だけに上国することに変更された。首里城で儀式を終えた後は、御庭に筵(むしろ)を敷いて、酒台、菓子盛、御酒、御飾などを整えてから、お供の女五人皆着座させて酒を賜ったのち、「あやこ仕、後にこいちゃにて踊候」と記されている。宮古の大安母一行し国王に拝謁したあと、首里城の庭で「あやご(ぐ)をうたい、こ(く)いちゃ(ー)」を踊るのが慣例となっていたのである。歌や踊りの内容は伝わっていないが、ここでは国王を賛美するものであったか知れない。ともあれ17世紀半ば、「あーぐ」も「クイチャー」も首里城の国王の面前で披露されるほどに、宮古を代表する舞踊として知られていたことを明示していよう。
1768(乾隆33)年12月公布の与世山親方宮古島規模帳の176条は、折目折目又は月の夜は百姓男女、役人の子孫の二才らが、道路や浜辺で、手を取り足をとって遊ぶ「よふね」の風習があるが、「節義」の妨げになるので、止めよ、と指示している。祝儀や月夜に百姓も役人のの子や孫の若者も道や浜辺で“ゆうつ”、つまり円陣をなして手をとり足をとり踊るのは辞めろといっている。状況からみてクイチャー禁止のようである。月夜に規制しなければならないほど、若い男女が踊り遊ぶ光景が一般的であったのであろう。
このほか規模帳には、狩俣や島尻、池間、久貝、松原など名指しでムラノ神事や年中行事を止めよと指示している。時間、経費、労力等の無駄とみなしたようである。しかし現在と違い、テレビやラジオ、新聞、雑誌など、何ら娯楽のない時代に、神とともにある安らぎの場、唯一の娯楽を奪うことはかえって生産を阻害し、ひいては貢祖にも支障をきすようになったのであろう。1793(乾隆58)年8月には、農業の励みにもならず、不安をきすばかりなので、「祈願、祭事、遊事等」は従来どおり催して、農業はじめ各自の職務に精励するようにと解禁している。当時の人々にとって御嶽を中心に催される神事や年中行事は生活そのものであり、いかに大事なものであったかを示すものであろう。同時にこれらの行事は多くの場合、歌や踊りを通して若い男女の出会いの場でも合った。「野崎クイチャー」には次のような一節がある。
姉ガマタガ イタンヌ緒ヌ切シ落チスキャヨ 遊ビ見ウデ 踊リ見ウデ 今日ガ夜ヤ / 兄ガマタガ サナギヌ緒ヌ切シ落ヌスキャヨ 遊ビ見ウデ 踊リ見ウデ 今日ガ夜ヤ / 明日ヌ太陽ヌ午ヌ時昇ラマスキャヨ 我等同志我伍タ同志踊ラデヨ(姉さんたちの 下着の緒が切れ落ちるまで 遊びましょう 踊りましょう 今夜は。兄さんたちの 褌の緒が切れ落ちるまで 遊びましょう 踊りましょう 今日は。明日の太陽が昇り正午になるまで 我等同志友達同志踊りましょう。[前掲 稿本])
3. 人頭税
1609(慶長14)年、琉球王朝を制圧した薩摩藩は、全琉球を検地、宮古の石高を1万1288石余とした。1625(天啓5)年、首里王府は宮古貢祖を粟一石につき1斗8升9合8勺5才の代懸で2154石余とした。このうちから必要な反布を買い上げるとしており、この頃の貢祖が比率によっていたことを示している。
1636(崇禎9)年、人口調査を経て、翌37年から頭懸に変わった。近世人頭税の始まりである。その後四回渡る人口調査があって、59(順治16)年、人口の増減に関係なく定額人頭税に改められた。この時の貢祖は、3367石余(1150石余粟納、2216石余布納)である。村を上、中、下の三段階(布は上、中)、人は上、中、下、下々の四段階とし、この村位と人位の14〜4の組み合わせで課税した。上限14は上村上男女、ついで上村中男女、中村上男女12、…順次2分下げて、下限4は全村下々男女である。当初人位は役人の見立てによったが、1710(康熙49)年、年齢区分にするとともに新たに二度夫(毎月二回公共の労働に従事、のちに粟納に換算され、三度夫)を課した。人位は、上21〜40歳、中41〜45歳、下46〜50歳、下々15〜20歳である。その間、寛永の盛増、享保の盛増、さらに上木高等が賦課されるようになり、1749(乾隆14)年には貢祖4698石余(1939石余粟納、2659石余布納)になった。
人口の増加にともない、あるいは貢祖確保のために多くの新しい村立てもされている。1714(康熙53)年〜1874(明治6)年 までに14村増え、38村になった。定額人頭税であり、人口が増えれば1人当たりの負担は軽減されるはずだが、過重負担に耐えかねて多くの「逃亡、縊死(いし)、殺児、堕胎等」の悲惨事が伝えられている。1771年、2548人の犠牲者を出した「明和の大津波」はじめ、台風、干ばつ等の災害も多発し、それにともなって飢饉もたびたびおき、多くの犠牲者が出ている。くわえて役人の恣意的な徴発、士族と平民の不公平な負担など。何よりも相次ぐ災害で田畑は荒廃し、耕地保持に大きな較差が生じたであろうことが考えられる。
人頭税は貧富(収入、財産の多少)に関わりなく人位と村位の組み合わせで等しく賦課されるのであり、貧者、耕地の少ない者には最も過酷な負担を強いることになるからである。近世も、末期になると、多良間騒動や、割重穀事件、落書事件など、役人の不正を糾弾する事件が頻発している。
4. 「漲水のクイチャー」

1879(明治12)年、明治政府は廃藩置県を断行した。しかし琉球王国依頼の旧支配層への配慮から、即他県同様の制度を導入せず、旧慣温存策をとった。このため人頭税も存続した。その上、新たな教育費や衛生費なども微収されるようになった。一方では新時代の到来とともにこれまでとは違って、様々な人の往来も頻繁になってくる。人ともに新しい知識、情報も入ってくる。明治20年頃には島政改革、人頭税廃止を求める民衆の動きも顕在化してきた。旧支配層の激しい妨害の中、那覇出身の城間正安、新潟県出身の中村十作ら、よき指導者の登場もあって、交渉相手は地元宮古島役所から、那覇の県庁、東京の政府、国会へと発展していった。
こうして民衆は一銭二銭のカンパ等に支えられて、代表四人、西里蒲(福里村)、平良真牛(保良村)、城間、中村は、1893(26)年11月3日に上京した。東京では中村の弟、十一郎、同郷の友人、増田義一らの全面的な協力ほ得て、府下12の新聞社等を歴訪し、宮古民衆の窮状を訴えた。併せて政府要路並びに主要議員邸を直接訪問して協力を養成した。西里、平良の両人連署で政府並びに国会に提出した「沖縄県宮古島々費軽減及島政改革請願書」の趣旨は次の三点である。1.島政ヲ改革シ以テ負担ヲ軽減スル事。1.人頭税ヲ廃シテ地租トナス事。1.物品ヲ以テ納税スルヲ廃シテ貨幣ヲ以テ納税スル事。
各新聞社は「沖縄県宮古島の惨状」、あるいは「琉球の佐倉宗五郎上京す」など、連日好意的に報道した。これに対して政府は内務省が書記官一木善徳郎、大蔵省が主税官仁尾惟茂を実情調査のため沖縄県に派遣している。しかし、衆議院は同年12月30日解散、貴族院も停会して、「請願書」の採択は不発に終わった。代表四人の政府要路への歴訪は続いたが、総選挙を経ての次期国会召集は4月以降であり、滞在費の関係もあって、2月23日いったん宮古へ帰ることになった。漲水の船着場には出発の時とはうってかわって、宮古中から数百の民衆が押し寄せ歓迎した。「請願書」採択への展望が確信できていたからであろう。四人を迎えた一行は3キロ余の鏡原馬場まで「クイチャー」をうたい、踊って喜びを表したと伝えられている。その時生まれたのが今も地域を問わず機会あるごとにうたい、踊りつがれている「漲水のクイチャー」である。別名「人頭税廃止のあやぐ」ともいわれる所似である。

5. 「継承」から「創造」へ
その後の請願行動は、中村十作一人同年4月上京したが、5月に召集された国会は6月もまたも解散したため、中村は11月三度単身上京している。翌1895(明治28)年1月、貴・衆両院は「請願書」を採択、貴族院は議員発議で「沖縄県政改革建議案」まで採択した。これを受けて政府はぜんじ沖縄県政の改革に着手、1899〜1902年には土地の帰属を決める「土地整理」をおこない、同年12月末を期して宮古・八重山の人頭税は廃止された。
こうして宮古民衆の島政改革・人頭税廃止運動はひとりの宮古・八重山ばかりでなく、沖縄全県の旧慣改革、真の近代化を促す契機となったのである。その勝利を祝する「クイチャー」が、1960年代の壮大な祖国復帰運動はじめ、様々な場で老若男女を問わず、今もうたい、踊られるのは、雨乞いの祈りに始まって、人頭税廃止運動に決起した先人の熱い思いが脈々と受け継がれているからであろう。この伝承を継承しつつ、さらに新たな発展へ向けての創造が求められている所以である。
人頭税廃止100年を記念して催される今回の「クイチャーフェスティバル」は、その重要な契機になることであろう。
宮古郷土史研究会会長 仲宗根 將二 「第一回クイチャーフェスティバル2002」 寄稿   
HOME | CONTACT | BLOG | LINK
Copyright(C)2002-2008 quicha festival Official site ALL RIGHTS RESERVED.